ノーベル賞の季節になったようで、本庶さんが受賞されたという。同じレストランで時々顔を合わせたが話したこともない。しかし、彼がレストランに入って来た際に、先に昼食を食べていた京大医学部か病院関係者の狼狽ぶりはおもしろかった。タバコを吸いながら昼食後のおしゃべりを楽しんでいた3、4人の白衣の連中が、タバコをもみ消し、残っているコーヒーを飲み干し、本庶さんに深々と頭を下げ、そそくさと飯代を支払って出て行った。なるほど、この人はそれほど偉い人なんだとは思ったが、どんな研究をやっているのかは知らなかった。ノーベル賞に付いてくる金は研究者養成に使うとか。結構なことである。
それにしても、現在の大学研究者の置かれている研究費状況は最低である。毎年定常的に支給される研究室運営費はほとんどないのに等しいという。競争的研究費が当たらないと、教授一人が自由に使える研究費はわずか30万円という。月にすれば2万円くらい。これではなにもできない。昔は教員が数名いる研究室では校費と称する金が毎年支給され、研究室が独自で金の使用を決定できた。研究室、研究者による自治が認められていた。金額も結構なものだった。そういう金を文科省が統括できるようにし、4人の教員が居ても100万円もない状態にし、研究費は競争的資金を取って来いと言う。国の研究支配である。自治を無くした大学は質の低下を招いている。競争的資金を獲得した研究者や研究題目が科学の進化につながるかといえば、そんなことはない。国家権力に従う研究者と金儲けのできる課題がのさばるだけである。現在の京大を見ていればよく分かる。国家の横暴を批判する動きなどは研究者にはまったくない。従うだけである。そのような構成員の下では学問の自由とか大学の自治ということばは聞いたことがない。だから、現在の学生は「大学自治」とか「学部自治」とか「学問の自由」なんてことを講義や教育の中で聞いたことすらない。
さて、本庶さんはまだ京大の特別教授の位置やその他の国家機構の位置を持っているようであり、ますます受賞後は増えて行くだろう。今の大学の状況に対して、単に賞金を寄付するだけではなく、国家予算の中での研究費の配分や管理機構に対してもの言う受賞者になっていただきたいものである。京大では多くの受賞者がいるが、そんな機能を果たした受賞者を見たことがないので、楽しみにしていようと思う。
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