2013年9月16日月曜日

京都学園大学のセクハラ事件の検証-10 20130916


教員個々人の人権感覚の質が問われているのだが

 この3年間にわたるセクハラ問題へのバイオ環境学部としての対応を概観して分かってきたように、最大の問題点は執行部、とりわけ学部長と学生主事の対応にある。しかし、彼らの対応を是正できなかった教員はこの3年もの間はなにをしていたのだろう。聞くところによると、全教員でこの問題に取り組もうとの動きも発生し、教員懇談会が何回か開催されたようである。何人かの良心的な教員が呼びかけた会議なのだろうが、部外者の小生には、どのような議論がなされたかを知るすべもないが、学生救済が第一義であるとの認識で全員が集まったものと思いたい。しかし、数名の教員は「関心がない」との理由で参加要請を拒否したとの噂を聞いた。関心がないとはよくも言ったものである。一人の学生の人権が教員によって踏みにじられている事態に対して、関心がないからというのは理由にならないだろう。自分たちの職場でそのような人権侵害が発生しているとの噂があれば、その実態を調べることは全教員、学部の責任であるとは思わないというのである。この「関心がない」と言う言葉が、この大学の質を的確に表している。そして、その言葉が一人の学生が大学を離れることになり、第2、第3の被害者も含めて、深い心の傷をつくってしまったことをこの教員はなんとも思わないのだろうか。
 この懇談会にも参加しなかった教授が小生の質問に対して返してきたメールがある。「○○さんがセクハラに及んだとのことですが、全く知らないことです。わたしは現在、執行部でもなく、学生委員でもありません。ことの性格上、オープンに議論するものでもないはずです。みんなで学生へのケアーをするとしても、然るべきところでセクハラと裁定があって後のことでしょう。「被害者」の学生が誰かも知りません。わたしの担当クラスの学生??」と。無責任教員の典型を見事に表現した文章である。セクハラ裁定以前でも、セクハラに気づき、防止するのが教員の仕事であり、それは役職とは関係ないはずである。まして、自分のクラスの学生が被害者であるにも関わらず、この態度である。「関心がない」として参加しなかった教員も顔負けの破廉恥さである。このような教員達が学部長や学長の無責任を増長させたと言える。もはやここは教育の場ではない。

 しばらく海外に出かけるのでこのブログは休みにする。再開したなら、ぜひ読んでいただきたい。

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